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トラック運転手過酷…長時間労働、残業代未払い

過重労働や残業代未払いなど、トラック運転手の労働環境の悪化が深刻化しつつある。

労働組合「ユニオン千葉」(千葉市中央区)によると、トラック運転手の個人加入者は2010~12年の2年半で17人。07~09年の5人と比べて、すでに3倍を超えている。17人のうちの16人が、残業代未払いの問題を抱えていた。実情を取材した。

 運転手歴約20年のベテランだった千葉県富里市の男性(48)は、昨年秋に運転手を辞めた。

 「トラックに乗っても今は収入が少なすぎる。運転手はもうやらないつもり」と男性は話す。

 以前勤めた別の会社では、平均月収が約50万円。ところが4年前に就職した茨城県に本社のある運送会社では、平均月収が二十数万円。手取りだと約18万円。未払いの残業代は約200万円に上った。労働組合に個人加入して会社と交渉したが、支払われたのは約60万円だった。

 背景にあるのは、「傭車」と呼ばれる外注方法だ。運送業者では、時期によって仕事量に波があるため、自社の運転手で足りない場合、手数料を引いて他社に仕事を回す「傭車」が日常的に行われている。男性の勤め先も下請けが中心で、「発注元と自社の間にどれだけの業者が入っているのか、会社側も把握していない仕事さえあった」。自社がよそに発注したはずの仕事が、何社も経由して自分のところに戻ってきそうになったことも。「請けられますか」と回ってきたファクスには、当初の値段よりも大幅に安い発注額が書かれていた。中間業者が手数料を差し引いた結果だった。

 今も運転手をしている千葉市の男性(57)は「運転手はただの部品だ」と訴える。昨年夏まで勤めていたのは、下請け仕事が中心で運転手約10人の小さな運送会社。元請けではやらないような厳しい仕事ばかりで、遠隔地から遠隔地へ、2~3時間しか寝ないで仕事をする運転手もいた。「会社側は運転手の労働環境や健康を考えていない。そもそも『労務管理』という発想がない」と話す。

 ユニオン千葉によると、同じ運送業でも、条件の厳しい仕事を低価格で引き受ける下請け仕事を中心に、中小零細企業の運転手の収入や労働環境が圧迫されている。相談に訪れる運転手の年収は約300万円前後といい、川崎正毅・執行委員長は「中小零細の運送業者では、4~5次請けの仕事も珍しくない。景気低迷の負担が下請けの運転手に回っている。労働環境はとてもひどい状態だ」と指摘する。(杉野謙太郎)

2012年7月1日14時04分  読売新聞)

米紙が1面で報じた「経済戦争の戦死者」

「仕事に生き、仕事に死ぬ日本人」。1988(昭和63)年11月13日、米紙シカゴ・トリビューンはこんな見出しをつけ、日本の過労死問題を1面トップで報じた。海外メディアでは初めて、過労死を「karoshi」というローマ字表記で紹介し、「経済戦争の戦死者」として、その年の2月に過労死したある工場労働者を取り上げている。 ベアリング大手「椿本精工」(現ツバキ・ナカシマ)の工場班長、平岡悟=当時(48)。63年2月23日夜、大阪府藤井寺市の自宅に戻って数時間後に、急性心不全で死亡した。

 中間管理職でありながら製造ラインに立ち、日勤と夜勤を1週間ごとに繰り返していた。度重なる早出と残業が加わり、1日当たりの労働は12~19時間。年始から51日間、まったく休みがなかった。

 作業着を脱ぎ風呂に入っても、体に染みついた工場の臭いがとれない。少しでも仕事から離れて仮眠してほしいと願った家族は、夜勤明けにクラシック音楽のコンサートに誘ったが、残業で行くことは叶(かな)わなかった。死の2日前のことだ。

葬儀の席で当時の社長が述べた弔辞は、悟をこうたたえた。「幾多の同志とともに、いばらの道を切り開き、苦難を乗り越えながら、まさに椿本精工の発展の歴史とともに、人生を歩んでこられました」。だが妻、チエ子(69)の心には響かなかった。

 確かに悟はまじめに働いてきたが、実直な性格に乗じて休ませなかったのは会社ではなかったか。死の背景には会社の理不尽な働かせ方があったのではないか。労働災害(労災)を申請し、後に会社へ損害賠償を求める訴訟を起こしたのは、そう疑ったからだ。

 会社はタイムカードなどの資料提供を拒否。担当者は「平岡さんのような労働は、ほかにも7人ほどやっています」と説明し、労働組合の関係者までもが「残業代が出て生活が楽になって、良かったんじゃないですか」などと心ない言葉をぶつけた。

 チエ子は実名と顔を出して、新聞やテレビの取材に応じた。世間に訴えるしかないと考えたからだ。思いが通じたのか、悟の過労死は全国ニュースで報道され、反響を呼んだ。

シカゴ・トリビューンは記事の中で「労働への狂信的な献身が、日本を戦後の廃虚から世界で最も豊かな国に引き上げた」と、高度成長の負の側面として過労死をとらえていた。

 いまや国内総生産(GDP)で中国に抜かれた日本だが、当時は「東洋の奇跡」を起こしたわが国への関心の高さから、皮肉なことに「karoshi」は国際語として定着していった。ただし、シカゴ・トリビューン掲載時、チエ子は「主人の生きた証しを残せた」という以上の感慨を持てなかったという。

 「それよりも、過労死をなくす運動を根づかせたり広げたりしたいという思いが強かった。そうすることが、会社に対する最大の抵抗だと考えていました」

 チエ子自身は、悟の死に直面するまで過労死という言葉を知らなかった。日本には、働きすぎやストレスで死んでいく労働者が多いという実態があることを、想像すらしていなかった。

 意識を変えたのは、四十九日を終えたばかりの4月19日、偶然目にした新聞の、ある“ベタ記事”だった。それは弁護士や医師らでつくる大阪過労死問題連絡会が、全国に先駆けて初めて行う無料電話相談「過労死110番」の開催を告知していた。

(敬称略) (産経新聞 2011/8/9)